戦犯たちが囚われたスガモプリズンで最後の処刑が行われたのは、1950年4月7日。米軍機搭乗3人を殺害した石垣島事件に関わった7人だった。そのうちの一人、28歳で命を奪われた藤中松雄には、福岡に残してきた妻と幼い二人の息子がいた。処刑が行われるのは、4月6日から7日に日付が変わってすぐの深夜。生涯最後の朝を迎えた松雄は、午前7時から家族それぞれに向けて遺書を書き始めたー。
生涯最後の朝 朝食後書き始めた遺書
4月5日の夜、死刑囚の棟から連れだされて、居並ぶ米軍将校を前に死刑の執行を告げられた松雄は、翌朝、朝食後にまず「両親」に向けて遺書を書き始めた。松雄は藤中家の婿養子なので、松雄の妻・ミツコの実の両親となる。文中では松雄は「松夫」、ミツコは「光子」と表記している。長男・孝一はこの時、満年齢で8歳、次男・孝幸は3歳だった。文中では数え年になっている。
















