スガモプリズン最後の死刑執行となった石垣島事件の7人。そのうちの一人、幕田稔大尉の生家は山形市にあった。戦災を逃れ築100年を超える家には、幕田の少年時代からの写真や資料が残されていた。幕田の母がとっておいたものだという。その中にセピア色に変色した古い新聞があった。石垣島事件の裁判が横浜軍事法廷で始まったのは1947年11月26日。その三日前に掲載された記事には、幕田が問われた戦争犯罪の内容が書かれていたが、それは事実とは違うものだったー。
特攻隊長の母が手元に留めおいた新聞記事
幕田稔大尉は1945年4月の事件当時は26歳だった。剣道の達人で海軍の特攻「震洋隊」の隊長として石垣島で任務に就いていた時に、石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐から米軍機搭乗員の一人を斬首するよう指名されて事件に関わり、戦後、戦犯に問われた。
幕田稔の母、幕田トメが残していた新聞は数枚あり、見るとどれも戦犯関係の記事が掲載されていた。いちばん古いものは1947年11月23日日曜日の朝日新聞だ。「王女の誓いも厳かに結婚式おわる」の見出しで英国のエリザベス王女の結婚式がウェディングベール姿の王女の写真と共に報じられている。その下段に「死体で刺突練習海軍四十六名に戦犯裁判」という記事があった。
















