私の曽祖父・永橋爲茂が戦艦武蔵に乗っていたと知ったのは10年前のことです。武蔵は大和と並ぶ世界最大の戦艦。直径46センチという規格外の主砲を備え、射程はなんと42キロ、マラソンで走る距離と同じくらいでした。その主砲が火を噴く写真が私の親戚の家から見つかり、スクープとして新聞に載ったのです。記事には、写真の持ち主が曽祖父・永橋爲茂であること、曽祖父が武蔵の初代砲術長=大砲など射撃の指揮官だったことが記されていました。
しかし戦後、曽祖父は海上保安大学校の校長就任の誘いを断り、家族と離れて小さな島でひっそり暮らしました。記者2年目で迎えた戦後80年。自ら育てた若い部下たちが乗る武蔵の沈没に涙した曽祖父の思いに迫りました。(TBSテレビ報道局社会部・永橋風香)
何も語らなかった曽祖父 なぜ?島でひっそり暮らした戦後
私は、瀬戸内海に浮かぶ島を訪ねました。曽祖父が、戦後移り住んだ広島県の大崎上島、人口7000人ほどの小さな島です。この島で曽祖父は戦後、家族からも離れてひっそり暮らしたそうです。それまでのキャリアとは関係の無い石灰を掘る会社で働いたといいます。町役場の方に見せてもらった古い写真を頼りに、私は海沿いにある会社の跡地を訪れました。そこに広がっていたのは、草が生い茂るだけの寂しい光景。すぐそばにそびえる白い山肌がかろうじて、この場所で石灰が掘られていたことを今に伝えていました。
なぜ曽祖父が、そのような戦後を送ったのか。戦時中に何があったのか。私は知りたいと思いました。しかし曽祖父は今から60年ほど前に69歳で亡くなり、話を聞くことはできません。そして曽祖父の四男である私の祖父・爲成も、既に亡くなりました。
そこで私は、曽祖父の次女で祖父の姉である、大貫和子さんを訪ねました。今年93歳。今回の取材のために初めて連絡を取った私を、温かく迎えてくれましたが・・・
曽祖父の次女・大貫和子(93)
「父は戦争時代のことは語らないですし、聞いていないんです。戦後、父親が遺言として残したのは『持っていた資料は全部焼却してくれ』だったんです」
戦時中、曽祖父は海軍の要職にあって忙しく、また機密保持もあって、家族にも戦争のことはほとんど語らなかったそうです。そして戦後はすぐに、島に一人で渡ってしまいました。和子さんにその思いを語ることはなかったそうです。

















