遥かなる牢獄より伏してご挨拶

藤中松雄の長男と次男

<藤中松雄の遺書 父母上様 1950年4月6日午前7時頃>
遺書
父母上様 お早うございます。遙かなる牢獄より伏して御挨拶申上げます。

今、午前の七時頃で先刻、朝食を済ませたばかりです。そして筆を執り最後の言葉となるであろう事を静かにお念佛となえながら、思いのままに書き綴って行こうかと思っています。今七時頃ですから、お母さんや光子、孝一、孝幸は、丁度食膳についておられる時分でしょうがお父さんは私なきが故に老いの身を鞭うち今日も一日、一家を支えてゆく為、すでに職場に出られている事と存じます。・・・と思って筆を走らせておりますと、父の顔が母、光子、孝一、孝幸の顔が、残面一杯になって浮いては消え、消えては浮き次々に現れて来ます。

父母上様
誠に申し訳なくそして云い難い事でありますが、松夫は昨夜の十時頃、階下の佛間にて昭和二十五年四月七日午前十二時三十分頃(松夫の判断十二時は誤りで0時三十分と思う)「藤中松夫」を死刑執行する旨、通告されました。それについては父母上様始め兄弟妹、親戚、光子、孝一、孝幸には本当に申し訳なく、心から済まなく思い、何とお詫び云って良いやら、その術も知りません。どうか松夫の胸中、御察し下され、何卒お許しください。

どうか仲良く励まし助け、お暮し下さい

藤中松雄とミツコの婚礼写真

<藤中松雄の遺書 父母上様 1950年4月6日午前7時頃>
父母上様
在家中は本当に色々と実子にも及ばぬ愛情を不幸者の私に注いで下され、松夫はどんなに幸福だったか知れません。父母上様の慈悲の御恩は永遠に決して忘れは致しませぬ。改めてここに深く深く感謝致しますと共に、その高大なる父母上様の御恩に対し、萬分の一の報恩も出来ず、そして報恩どころか重ね重ねの不幸、この上ない御心配をおかけしたまま散って逝かねばならぬのかと思うと残念でなりません。

「此処まで書いて指紋とりに行く」「だがサインはせず」


ここで、松雄は指紋を採取された。この指紋は、米軍第八軍のラボでスガモプリズン入所時に採られた指紋と照合され、本人確認がとられている。

<藤中松雄の遺書 父母上様 1950年4月6日午前7時頃>
老いし父母上様を、数え年十才の孝一を柱と頼む光子を、十才と四才の幼き孝一、孝幸を残して逝く事は何といっても忍び得ない事であります。私亡き後は何かにつけて不自由な事ばかりと思いますが、どうか仲良く理解し合って互いに励まし助け、不足な分は分かち、或いは我慢し忍び合って、お元気にお暮し下さい。それを松夫は佛の国から祈っております。

父母上様、一家仲良く、そして朗らかな聖なる生活を送るには、御佛を念じ、佛道をたゆまず精進する事が最も大切な事であると思います。