◆「生意気」だと頬を殴られた

横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)

石垣島事件では、1人目のティボ中尉を幕田稔大尉が斬首。2人目のタグル兵曹を田口泰正少尉が斬首。そして3人目のロイド兵曹を杭に縛りつけ、「刺突訓練」のように、大勢の日本兵が銃剣で次々に刺して殺害した。そのため、41人という異様な数の死刑が宣告された。米軍の調査官は処刑に参加した者が「共同謀議」で殺害したことになるように、命令によるものではなく「自発的に刺した」という筋書きで取調べを進め、時には暴行を加えて、筋書きに沿うような陳述書を書かせた。成迫もそうされた一人だった。

(成迫忠邦の証言 1948年2月9日)
「昭和22年(1947年)1月30日の夕方、法務部に行き、直に訊問があり、突然、飛行士のことをきかれたので考えていると、私が手を後ろに廻しているのが生意気だと云い、襟首をつかみ首を絞め、何とかいいながら頬を殴った。自発的に突いたということと榎本中尉の一般命令によるということを強制された。この暴行は自分が二階に呼ばれて調べられた時で、その時、榎本中尉らは階下の控え室にいた。検事側第49号証は、署名する前、翻訳されたが早くて内容はよく了解出来なかった。又、その陳述書を書く前に宣誓はしていない」

◆誰にも命令されず自発的に突いたは「間違い」

横浜軍事裁判関係「公判概要」綴(石垣島の部)外交史料館所蔵

最初にロイド兵曹を刺した藤中松雄も、証拠提出された調書では、「命令を待たずに刺した」としていたが、裁判では「榎本中尉から突けと命令があった」と供述を変えた。成迫も同じような文言で調書をとられ、法廷で否定している。

(成迫忠邦の証言 1948年2月9日)
「検事側第49号証中、飛行士が杭に縛られた後、身長の低い人が飛び上がって正面から殴ったとあるのは記憶にはあるが、それは炭床兵曹長ではなくもっと丈の低い人である。又、突く前に誰にも命令されず自発的に突いたとあるは間違っている。検事側第50号証にも同趣旨の記載があるが其れは間違いだ。署名の直前2月6日の朝9時頃、山田通訳に請求されて答を書いたものを持って行ったが、自発的と一般命令を書けと要求し、それを書くまでは通らず、三、四回無理を云われ、遂に山田の言うままに付け加えた。英語で陳述書を自ら書いたものはない。藤中が突いてから3分後に突いた」