太平洋戦争末期、沖縄県石垣島で墜落した米軍機の搭乗員を殺害したとしてBC級戦犯に問われ、26歳で死刑になった成迫忠邦。横浜軍事法廷の証人台に成迫忠邦が立ったのは、1948年2月9日のことだった。証拠提出された自分の陳述書を「自発的にやったと書けと強制された」と否定する成迫。さらに検事らの質問は、成迫が銃剣で米兵を突いた時、「生きていたのか、死んでいたのか」に焦点が絞られたー。

◆成迫は2番目に米兵を銃剣で刺突

判決を受ける成迫忠邦 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)

前年の11月末から始まった石垣島事件の戦犯裁判。成迫が証人台に立った1948年2月、裁判は佳境を迎えていた。この日は、5人が証人台に立った。

石垣島事件では3人の米兵が殺害されているが、成迫が関わったのは3人目、杭に縛られて多くの兵から銃剣で突かれたロイド兵曹の殺害だった。成迫と同じく下士官だった藤中松雄一等兵曹が、現場を指揮していた榎本宗応中尉の命令に従って、ロイド兵曹を最初に突いた。そして、その次に突いたのが成迫忠邦上等兵曹だった。

◆「自発的にやった」と強制されて書いた

石垣島事件で処刑された3人の米兵

外務省外交史料館が所蔵している、横浜裁判の公判概要(石垣島事件の部)には、成迫が証人台で話した内容が記録されている。成迫は、スガモプリズンに収監される前に、福岡で調べを受けている。その際、自分が作成させられた陳述書について、次のように述べた。

(成迫忠邦の証言 1948年2月9日)
横浜軍事裁判関係「公判概要」綴(石垣島事件の部)」外交史料館所蔵
「検事側の第30号証を福岡で書く時、山田通訳から紙と鉛筆を受け取り、あまたの問題を出された。これは取調室でも書き、土手町刑務所内でも書いた。この陳述書は自分の手で書いたものだが、自発的にやったと書くように強制された」