安里幸子さん
「向こうに帰ってそのバッグを見たら「タイガーさんに行ったんだね」ってその話はよく聞きました」
こうした中、空前の好景気に沸くコザの街に大きな変化が訪れます。1972年、沖縄の日本復帰(アメリカから日本への施政権返還)です。

安里光雄さん
「全く天と地の差。ドル安で、1ドル・360円からすぐ105円ぐらいになっていたね。復帰後は大変でした。」
経営が困難となり、廃業や業種転換を迫られる店が相次ぐ中、それでも刺繍を続けた安里さん夫婦。
安里光雄さんが「電話料金を払うのもやっとだったよね?」と振り返ると、幸子さんは「預金が底をついて電話料金足りないよ、持って来なさいと言われて、かきあつめて持っていったこともありました」と生活をすることが精一杯だったと振り返ります。
2005年に現在の場所に店を移し、光雄さんは85歳となった今も週に3回店に立ち続けています。

安里光雄さん
「今は手伝っているという感じです。別に難しい問題ではない。やるんだったら、相手が喜ぶようなものを作ってあげようと、そのぐらいの感じ」
アメリカ兵の歓楽街として栄えたコザのまちにも一風変わった光景が広がる場所がありました。現在の銀天街です。
1960年代のアメリカでは、白人と黒人の間で人種をめぐる激しい対立が続き現在の胡屋十字路近くの一番街周辺を「白人街」、コザ十字路近くの銀天街周辺を「黒人街」とするなどまちの形成にもその影響が色濃く現れていました。

久志弘さん
「ここ(銀天街周辺は)は黒人だけしかいなかった、白人がいたらやられるわけさ。」
黒人街で唯一の刺繍店を営んでいた久志弘(くし ひろし)さん。今ではにわかに信じがたい、当時の様子をこう話します。