復帰50年シリーズHOPE50。本土復帰前、アメリカ兵の歓楽街として栄えたコザの街。外国人を相手とした様々な商売が繁盛しました。そのひとつが”刺繍(ししゅう)店”。
今回は刺繍を通してみるコザの街の形成や当時の社会状況を振り返ります。


沖縄市の中央パークアベニューにたたずむ刺繍店「タイガーエンブ」。
店内は数えきれないほどのパッチワークで埋め尽くされています。

タイガー刺繍店 安里光雄さん(右) 幸子さん(左)夫妻


創業者の安里幸子(あさと・さちこ)さんと夫の光雄(みつお)さんご夫妻。

安里幸子さん
「(当時は)いつ寝るかねって、本当に(当時は)寝るというのは(考えられない)今思えばゾッとしますね。」

1964年胡屋十字路近くの国道330号に面した場所に開業しました。
1960年代ベトナム戦争時代を最盛期として外国人相手の商売で繁盛していたコザのまち。アメリカ兵のネームタグや階級章などの刺繍の需要が高まり多くの店が軒を連ねていました。


安里光雄さん
「14・5軒ぐらいあったんじゃないかな。少なくても(通りに)10軒ぐらいはすぐそこらへんぐらいにあった」

安里さん夫婦も、アメリカ兵のパッチワークをはじめ航空会社のロゴや、スーツを持ち運ぶガーメントバッグ用など、多彩な刺繍を販売していました。

安里光雄さん
「アメリカの航空会社が12、3社来て、パイロットやスチュワーデスが頻繁に来るわけよね。(当時)沖縄はあまりお土産がなかった、お土産として色んなものを作ったら何でも売れる時代でした」


コザの刺繍は、本土のテーラーから習得した高い技術が駆使されていて当時アメリカ兵などの間で高い評価を得ていたと言います。

安里幸子さん
「向こうに帰ってそのバッグを見たら「タイガーさんに行ったんだね」ってその話はよく聞きました」

こうした中、空前の好景気に沸くコザの街に大きな変化が訪れます。沖縄の本土復帰です。


安里光雄さん
「全く天と地の差。円安で要するに(1ドル)360円からすぐ105円ぐらいになっていたね。復帰後は大変でした。」

経営が困難となり、廃業や業種転換を迫られる店が相次ぐ中、それでも刺繍を続けた安里さん夫婦。
安里光雄さんが「電話料金を払うのもやっとだったよね?」と振り返ると、幸子さん「預金が底をついて電話料金足りないよ、持って来なさいと言われて、かきあつめて持っていったこともありました」と生活をすることがやっとだったと振り返ります。

2005年に現在の場所に店を移し、光雄さんは85歳となったいまも週に3回店に立ち続けています。


安里光雄さん
「(今は)手伝っているという感じです。別に難しい問題ではない。やるんだったら、相手が喜ぶようなものを作ってあげようと、そのぐらいの感じ」

アメリカ兵の歓楽街として栄えたコザのまちにも一風変わった光景が広がる場所がありました。現在の銀天街です。
1960年代のアメリカでは、白人と黒人の間で人種をめぐる激しい対立が続き現在の胡屋十字路近くの一番街周辺を「白人街」、コザ十字路近くの銀天街周辺を「黒人街」とするなどまちの形成にもその影響が色濃く現れていました。

久志弘さん
「ここ(銀天街周辺は)は黒人だけしかいなかった、白人がいたらやられるわけさ。」

黒人街で唯一の刺繍店を営んでいた久志弘(くし・ひろし)さん。当時の様子をこう話します。

久志さん
「白人がタクシーに乗っているのを)見ると、どこからかわからないけどみんな(黒人が)集まってきて、この白人を(タクシーから)おろしてボコボコにしてみんないなくなるわけよこれは当たり前だった。最初は自分も止めに入ったが」