◆同じ運命にある不幸な獄友の歌

藤中松雄が関わった石垣島事件は、3人の米兵殺害について41人に死刑が宣告されたという事件だった。この年の初め、再審によって28人が死刑から減刑されたが、まだ死刑囚が集められている「五棟」には、13人が残っていた。二畳ほどの独房は、自殺防止のために二人で使用するようになっていて、この時、松雄の同居人となっていたのは、同じ石垣島事件の北田満能。松雄より6歳ほど年上だった。
<藤中松雄が兄に宛てた手紙 1949年10月25日>
兄さん、今日はあれこれ書きたい事は山程ありますが、こちらの近況を知らせる意味において、私と同じ運命にある不幸な獄友が詠んだ歌をお送りいたしましょう。まず最初に同室の北田氏(同室の人で共々念佛一途に兄弟の様に暮らしている)に自筆を以て書いて頂くつもりです。
松雄は、兄への手紙を北田に託し、直筆で歌を書いてもらった。
(北田満能)
段の上より平和日本の日の丸を期して逝きよし獄友もありなき
◆死に逝きし友が遺したもの

同じく石垣島事件での死刑囚たちの歌。石垣島警備隊の司令・井上乙彦大佐と、米兵一人を斬首して実行役として死刑になった幕田稔特攻隊長の歌も写している。階級は関係なく、松雄が良いと思った歌を書いたようだ。
(井上乙彦)
帰り行く妻の肩まで丈のびしオカッパ髪にふりかへる吾
(幕田稔)
友一人連れ去られたる夜はすぎて 紅かなし鳳仙花のはな

(瀬山忠幸)
我が命再びのびて今日の月 心しづかにながめけるかも
死に逝きし友が机に爪書きの「三日母さんが来た」胸せまるかも
瀬山忠幸も石垣島事件に関わった死刑囚の一人だが、井上乙彦大佐や松雄ら7人の死刑が確定した再々審で、死刑からいきなり重労働5年に減刑され、1951年8月に出所している。このころは、連れ去られていく仲間たちを見送りながら、自分もいつ死刑が執行されるか、怯えた日々を送っていたのだろう。