終戦の4ヶ月前、石垣島で墜落した米軍機の搭乗員を殺害する現場に立ち会い、上官の命令で米兵を銃剣で突いた藤中松雄。戦後、BC級戦犯として死刑の宣告を受けた松雄は、1949年10月、米軍が管理するスガモプリズンの死刑囚の棟で、兄に手紙を書いていた。28歳、故郷の福岡県嘉麻市には妻と幼い息子たちがいた。仲間の死刑囚たちが詠んだ歌を写し、自分も歌を詠んで、獄中の心境を伝えようとした松雄。松雄の歌には、家族を想う切々とした心情が詠み込まれていたー。
◆処刑の半年前 稲刈りの季節に

松雄は19歳で藤中家に婿入りしているが、実家も婿入り先も農家で、手紙の時候の挨拶は、まずその時期の農作業から入る。
<藤中松雄が兄に宛てた手紙 1949年10月25日>
拝啓
長い間御無沙汰している間に時候も変わり、ぐんと涼しくなって参りましたね。手紙に稲穂はほとんど黄金色になって来たとありますが、既に稲刈りも始まり、伯父伯母上様はじめ、一同元気に多忙な家業に一生懸命お働きの事と推察いたします。私も元気に日々念佛の精進を続けております故、どうか御安心下さい。兄さんの便りはことごとく入手いたしております。先日の便りに限らず、度々のお手紙、全くお礼の言葉もなく、ただ有り難さ一杯で便り入手するごとに、温かい兄の手を直接握る心持ちで拝読しております。また、文面の一字一句、これまた兄の優しき声を耳元近く聞く様です。