戦争で避難、その後は米軍のダムにー 戻れなかった故郷

沖縄市に住む、瑞慶山良明さんは、集落で暮らしていた両親の思いを継ぎ、倉敷郷友会の、会長を務める。

瑞慶山良明さん
「当時はいずれ将来この倉敷に戻って、もともとの部落に戻って生活をしたいという願望が非常に強かったですから。終戦後、各疎開地から戻ってくるでしょ、しかしながら入ることができなくてね、散り散りバラバラになってるわけですよ。こういう苦渋の経験というのが、我々幼少のころから話がしなかったですね」

湖底に沈み、2度と住むことが叶わなくなった、ふるさとー
しかし今から37年前、ダムを再開発するとき、良昭さんは1度だけ、水抜きされた倉敷集落に足を踏み入れたことがある。

瑞慶山良明さん
「(集落の)絵をかいたのはね、本家の長男です。これうちの母ね。本家のおばさんね。でもあの時はこんな花はなかったです。井戸の跡とか、祖父母、あるいは親戚のおじさんが、この辺に住んでいたんだなと。私たちの先祖の地域ですから」

瑞慶山良明さん
「何らかの憩いの場所になるよう、サクラを植えて満開させようという呼びかけを今やってるところです」

かつて人々が長閑に暮らした農村だった倉敷を訪ねると、79年の時を経て、笑顔あふれる子どもたちの声が響いていた。
(取材:片野達朗)