なぜ市川輝子さん(100)はシベリアに...

20歳で満州に渡り、事務の仕事をしていた市川さんは、1945年、22歳の時に女子挺身隊として召集されました。

看護師不足を補うため、約150人の女性が看護師助手となり、そのまま、日本軍とともに抑留されたのです。

(シベリアに抑留された 市川輝子さん)「軍が行きましたから。日本の軍が全部。それについている女の子はみんな行きました」

酷寒の地で市川さんはまず、薪拾いやジャガイモ堀りに駆り出されたといいます。

(シベリアに抑留された 市川輝子さん)「何を食べていたのかしら…。ジャガイモの切れ端を食べたりね。それじゃ足りないからね、自分たちで採って帰ったジャガイモを食べる」

「ジャガイモは本当は全部出さないといけないんですよ、兵隊さんがいるし。だけどポケットに入れて帰る」

「男の人がそれを見つかったらやられる。女の子だから(ソ連の)兵隊さんも遠慮してたたかなかったんだと思う」

一方で、女性ならではの苦しみもありました。布も綿もないシベリアでも、生理は変わらずきたといいます。

(シベリアに抑留された 市川輝子さん)「兵隊さんも、お父さん方は、娘を持っている人は分かるから。『あんたらも困るのう』と言ってタオルをお父さん方がくださるの。『これをしとけ』って」

「だから、私も食べるものを父親みたいな(タオルをくれた)人にあげる」

日本人同士、支え合いながら日々を生き抜いたといいます。