夫と子2人 充実した生活は徐々に厳しさを増す

箱石さんは、14歳で理容師になるために栃木から上京。22歳の時に同じ理容師の二郎さんと結婚し、2人の子どもに恵まれた。
夫婦は東京・新宿区に理容店を開業。その2年後には太平洋戦争が始まった。国民の協力が呼びかけられている時期。ぜいたく品は手に入らなかったが、職人、弟子、家事手伝いも雇い、忙しくも充実した日々を送っていた。
しかし、戦況が悪化するにつれ、配給事情も段々と厳しいものになり、手に入れられる食材は減っていく。鍋や皿を持って、食事はもっぱら雑炊。だんだんと手に入れられる食材は減っていった。わずかな野菜と米。イワシのぶつ切りが入れば良いほう。「動物のエサよりひどいと思った」と振り返る。たまに売り出される練り菓子や饅頭を大行列に並んで買うのが唯一の贅沢だった。

「家族も、理容店で働く職人も弟子も、誰も腹いっぱいには食べられませんでした」。
箱石さんは、理容師の仕事、子育て、さらに食材の買い出しに追われた。リュックを背負って満員の電車に揺られながら、埼玉県の所沢市に野菜の買い出しに通った。農家のもとを訪れ「畑になっている野菜を譲ってもらえませんか」と求め歩く日々。それでも農家の人からは「うちでも食べるものに困っている」と断られることの方が多かった。