◆熱意を持っていた主任顧問弁護人
<嘆願書>
この事件は初め、ジョセフ・ジー・ワイマン氏が主任顧問弁護人として選ばれ、1947年11月26日から裁判が始まりました。
同氏は約一ヶ月間の調査で、事件の真相、被告人の主張及び反証方法等につき十分、理解研究し、しかもこの事件につき、非常な熱意を持っており、被告人ら及び私どもから十分な信頼を受けて弁護に当たりました。ところが1948年1月8日休廷中に、被告人ら及び私どもの面前において、彼とイー・ダブルユー・ガスリー検事とが、かねてから懸案になっていた、被告人らの首に氏名標を掛けるという件につき言い争い、互に腕力を行使するという事件が起こりました。これが原因であったと思いますが、ジョセフ・ジー・ワイマン氏はその意志に反し、又、被告人ら及び私どもの意志に反し、当時の弁護団長バーロン・ケー・フィリップス少佐によりこの事件の担当を解かれ、同月12日より同人に代ってハロルド・キンゼル少佐が法廷に姿を現わすに至りました。
戦犯裁判に熱意を持ち、被告人たちからも信頼を得ていたワイマン氏が、ガスリー検事との取っ組み合いの喧嘩で、交代させられてしまうという悲劇が、裁判が佳境に入ってくる時期に起きていた。

◆ワイマン氏の交代で弁護に暗雲
<嘆願書>
私どもはこの暴行事件を目撃しており、非は検事にあると考えておりましたのに、検事は罷免させられず、弁護人のみが罷免させられるのは、了解ができませんでしたし、公判が重要段階に入っている時、主任顧問弁護人の交代は、被告らに極めて不利益であると考えましたので、全被告人らとも協議の上、共同して嘆願書を作成し、同日弁護団長を訪れ、これを提出しジョセフ・ジー・ワイマン氏の罷免取消を願いましたが、聞き入れられませんでした。
その後の審理における弁護は、ハロルド・キンゼル少佐が、この事件の内容を知らぬのと、熱意を持たない為、主として補助顧問弁護人であったルース・ブライフィールド嬢により、あたかも彼女が主任顧問弁護人であるかのように行われました。しかし、彼女は第四等級の弁護人で、主任顧問弁護人になる資格を持ってはおらず、その能力が貧弱であることは毎日の法廷において次第に明らかとなり、被告人ら及び私どもとして、痛く失望せしめるに至りました。
