村の “年間予算の2倍” をかけて輸送…

12年前から砲身の由来を調べてきた立山町議、岡田健治さんによりますと、これまで地元では1905年(明治38年)5月の日本海海戦で活躍した「志保丸」の砲身とされていましたが、当時の資料には該当する軍艦がないほか、申し出た時期が1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後の混乱期で確かな裏付けがなく、長らく判別不能となっていました。

12年前から由来を調べてきた立山町議 岡田健治さん

こうしたなか、この春の建立100周年記念実行委員会立ち上げを機に本格調査が行われ、砲身の手掛かりとなる当時の新聞や国立公文書館の資料などから、旧海軍が建造した初期の戦艦「安芸」に装備されていた可能性が高いことがわかりました。

砲身は広島県の呉海軍基地にあったもので、貨車2台連結した特別車両で北陸線の米原駅から山室駅(現在の富山地鉄不二越駅)まで運んだあと、山室駅からは利田村の村民約500人が出て、大八車4両に乗せて2日間かけて利田小学校の敷地内に運ぶ大事業だったということです。

集めた資料を手に由来を説明する岡田健治さん

これら輸送にかかる費用は地元が負担し、村の予算のおよそ2年分にあたる当時の金額で約1800円がかけられました。