▽比嘉幸子さん(2015年の取材・当時83歳)
「あのときのことは本当に忘れられない」
2015年の8月6日。那覇から広島に向かい黙とうを捧げる幸子さんの姿がありました。

▽比嘉幸子さん
「光線がさっときて、そのときは襖の陰にいたから光線はまともに受けていないんです。その瞬間、前の窓から(家の外に)飛び降りて、怖くてうずくまっていた」
1944年、戦況が悪化するなか、父の故郷である広島に疎開。その翌年、体調が悪く学校を休み、仕事に向かう母を見送ったあと、広島に原子爆弾が落とされました。

▽比嘉幸子さん
「一瞬にして焼け野原。みんな家屋がぺっちゃんこになっているんですよ。歩こうにも歩けない」
13歳で被爆した幸子さん。夕方、大きなやけどを負って帰宅した母の姿を、生涯忘れることはありませんでした。

▽比嘉幸子さん
「顔の火傷から、髪もばさばさ、見ていられない。でもこれが母親だと思うと…。
私の顔を見ると「幸子、水、水」と水ばかりせがむ。ひしゃくはそばに置いてあるから、それから飲ませて。2杯飲ませて」
「2杯でも多いと思ったけど「もっと、もっと」て要求するものですから、「お母さん、火傷だよ。水は良くないよ」と叫んだのだけど、叫び続けてね」

母親は一命を取り留め、戦後家族は沖縄へ戻りましたが、苦難は続きました。復帰前の沖縄では、本土で施行されていた被爆者への補償や治療の制度が適用されず、置き去りにされていたのです。