「家族の時間」再び
「見つけていただき、本当にありがとうございます。」
1月15日。最後の治療の日に、八幡さんは指宿図書館2階にある市史編さん室にいた。印がついている地図とアルバムを上川路さんから渡され、涙が出そうだった。
アルバムには、指宿市で撮った写真だけを貼ったページもあれば、鹿児島の各地や県外が混じったページもあったことが分かった。「このごちゃ混ぜのページは母が貼ったんだな」と直感した。
母の芳子さんは、繊細なところもあったが、ズボラなところもあったからだ。カメラ好きな父は、きちょうめんだった。若い頃の父は、おおらかなところがある母に惹かれたのかもしれない。父と母は、時々けんかもしていたが仲が良かった。今思えば、それぞれ欠けているところを補いあうような夫婦だったと思う。
小学生のころ、夏休みに家族3人で四国を一周したことがある。エアコンのない軽乗用車で、窓を全開にして。親子で笑いながら旅をした。
少年のころ、拾った子犬を連れて帰ったことがある。最初は「飼えない」と反対された。でも、1週間も経たずに父も母も名前を呼んでかわいがるようになった。エスと名づけられた犬は、家族の一員として15年間一緒に暮らした。
よく話し、よく笑う家族だった。
そして、2025年3月。上川路さんが印をつけてくれた地図とアルバムを頼りに、八幡さんは両親が指宿で旅した場所をめぐった。
池田湖のほとりに立って、写真の背景と同じ山を見た。64年前の今、父と母が確かにここにいた。これから新しい人生を歩む夫婦が、美しい未来を見つめながら立っていた。病気で亡くなることも、事故で亡くなることも、全く思っていなかっただろう。
それでも家族の幸せな時間は確かにあった。
「こうやって、父と母の思い出の場所をめぐって、気持ちを重ねることが自分にできる親孝行なんだ。」
池田湖の水面は静かで、春の風が流れていた。
64年の時を経た旅ができたのは、上川路さんのおかげだ。元公務員として、上川路さんの仕事に思うことがある。














