太平洋戦争中の1944年、多くの子どもたちを乗せて那覇を出港した学童疎開船「対馬丸」がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した事件から、8月22日で80年となりました。
対馬丸に引率教員として乗船し、目の前で多くの教え子たちを失い、生き延びてもなお、自責の念を抱え続けた女性がいます。今は亡き彼女が晩年まで暮らした栃木県で、実の娘と会うことができました。

栃木県栃木市。海のない、緑に囲まれたこの地に眠る沖縄出身の女性がいます。
娘・上野和子さん
「はい、おじいちゃんとおばあちゃん、来たよ」
対馬丸の事故を生き抜いた新崎美津子(にいざき・みつこ)さん。引率教員として乗船し、目の前で教え子たちを失いました。
娘・上野和子さん
「いつも対馬丸事件がなければ私は沖縄にいたと(母は言っていた)」
美津子さんの娘、上野和子さんは母の遺志を継ぎ、対馬丸の語り部として活動しています
上野和子さん
「母が今まで苦労してきた分だけそれを何かに返して、それが基礎になって平和が続けばいいなと思います」

80年前の8月22日、対馬丸は海に沈みました。疎開先に向かう途中、アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受けたのです。疎開のために乗っていた1661人のうち約半数は、子どもたちでした。
生前、美津子さんは対馬丸の出来事を家族に語ることはありませんでしたが、ひっそりと、ノートに書き残していました。