上野和子さん
「これ私の息子なんですけど。孫のね使い古しのノートがいくつかあるんだけどって言ったらもらうもらうって言って。それにね、こんな風に書いてるんですよね。グジャグジャと」

美津子さんが、7ページにわたりぎっしりと残した手記。戦況が悪化してから、対馬丸が沈没し漂流した4日間までの一連が書き綴られています。

(美津子さんの手記)
「昭和17年半ば位になると、戦局も日に日に厳しくなり、校庭は軍人が隊を組んで軍靴の音でそうぞうしく落ち着いた勉強もできない状態でした」

「子どもたちは親たちに付き添われてはしゃぎまわったりして、旅行にでも行くようなはしゃぎ様でした」

「妹と甲板に行って、夜の海をみつめていました。遠くの方から4寸くらいの黄緑かかった白色のローソク様のもので、こちらに向かっていたのです。それがあの恐ろしい魚雷だったのです」

(美津子さんの手記)
「妹は『お姉さん、足を怪我した』と言いましたが、飛び込むかどうしようかとの緊張の瞬間なので『一寸だまっていてよ』と言ったとたんに横波がきて、しっかり引いていた手を離されてしまいました」

「私は海の底におとされました。私はこれで人生終わりだと意識して大きく一呼吸して両手を顔にあてていたら、ポンと浮き上がり枝の葉につかまっていました」

「一夜明けて明るくなると沢山いた子どもたちがみんないなくなっていました」

「いかだの上の6人は顔をぶったりしていましたが、60歳くらいのおばあさんは寝てしまっていたと思います。いかだの外に落ちてしまいました。高等科生男子2人は泳ぎに自信があると言って2人で海に飛び込みました。それっきり帰らぬ人となりました」

「船が沈む時の打撲が化膿して私もこれで、と思いましたが、ちょうどその時漁船が着て助け出されました」

美津子さんは、生き残ったあとの苦しみを歌に残していました。

「師の我は 紺碧の海さえ うらめしく 海上慰霊祭 ことはり続けたり」

和子さんが初めて母のノートを手に取ったのは、美津子さんが亡くなったあとのことでした。長年、家族の中では暗黙の了解として対馬丸について深い話はせず、自身もどこかで母の苦しみに踏みこむことを避けてきました。