娘・上野和子さん
「(美津子さんが語っていたのは)大事に預かった子どもたちを全部亡くしてしまって、親御さんたちの顔は見られないって。沖縄を歩くのは恐ろしいって。誰に会うか分からない。そしてその自分が生きていることを責められたらもうそれは恐ろしいって。自分だけ生きて自分の子どもどうしたのって言われるんじゃないかって」

対馬丸での出来事は、美津子さんだけでなく家族の自由も奪いました。美津子さんと幼馴染同士で結婚した夫、興一郎さん。医師として働きながら、いつか沖縄に戻り恩返しがしたいという夢を抱いていましたが、亡くなるまでその夢は叶いませんでした。
上野和子さん
「2人で子どもを分けて、私は沖縄帰れないから、あなたは沖縄帰って病院建ててっていう話もあったらしいんですね。でも、兄弟を2人ずつ分けるのは絶対だめだって。それで父も泣く泣く。死ぬまで葛藤してたと思いますよ。死ぬまで」

長年口を閉ざしていた美津子さんがペンをとるようになったのは、80代に差し掛かったころ。さらに亡くなる5年ほど前からは少しずつ講演会などで自身の経験を語るようになっていました。
新崎美津子さん(当時88歳)
「先生!先生!と私を呼ぶんです。遠くで。宮城先生(旧姓)!と呼ぶ声がだんだん小さくなっていくのが、耳に今でも残っています。この声だけはもう…。子どもたちを死なせて自分が生きているのは教師として恥ずべきと思った」

子どもたちの死や母の生きた人生の重さを証明するため。和子さんは母の若い時を知る親戚から聞き取るなどして、対馬丸の出来事を語り継いでいます。
娘・上野和子さん
「ある日、母が『私は生きるべき人間じゃなかったのよ』ってポツンって言った時に、『え?』って思って。子どもたちが生きてたことを忘れないでほしいって言ったことも私の頭の中には鮮明に残ってる。だから私が話をするというのは母の苦労を、それから子どもたちが死んだことを無にしないでほしいということ」

対馬丸事件を伝える那覇市の記念館には、美津子さんの言葉が証言として残されています。
「地平線の下で誰にも見えないところで生きたい」
教師として、沖縄出身者として、生き延びてもなお、自責の念を抱えたまま亡くなった美津子さん。悲劇を語り継ぐ彼女の声は、今も静かに平和を問い続けています。