スガモプリズン最後の死刑執行で命を絶たれた一人、山形市出身の幕田稔大尉が拘束されたのは、1947年2月のことだった。家族を養うため、山形の家を離れ、北海道函館市の魚粉会社に勤めていた時に連行された。いきなりの拘束、何の容疑で連れ去られたのか、情報が錯そうし混乱の様子がうかがえる手紙が、生家に残されていたー。
「ほどなく元気に帰る」本人からの伝言
スガモプリズンの基本データによると、幕田稔大尉が入所したのは1947年2月25日となっている。1919年2月27日が生年月日なので、28歳の誕生日を目前に囚われたということになる。シベリアから帰還しなかった父にかわり、母と弟妹を養わなければならなかった幕田は、除隊後も掃海艇に乗り、1946年10月に退船してからは、北海道函館市の魚粉会社に勤めていた。事務員として働いていたようだ。
職場から連れ去られたので、幕田の母トメは事情について会社に問い合わせる手紙を出していた。会社名が印刷された便箋に書かれた職場からの返事が見つかった。(※現代風に書き換え)
<魚粉会社の人から幕田の母トメに宛てた手紙 1947年3月21日付>
拝啓 三月十四日付お手紙拝見いたしました。色々とご心配のことと存じますが、嬉しいニュースをお知らせいたします。実は昨日、ある人より便りがあり、幕田君はほどなく元気で帰る予定である旨、本人より伝言があったと連絡ありました。
なお、私の方でも今東京に連絡しておりますので、月末には、はっきりと判明すると思いますので、あまりご心配なくお待ち下さい。
会社の方でも概ね順調に進んでおりますが、我々も幕田君のお帰りを待ってと切なるものがあります。まずはとりあえずご連絡まで。今後の吉報をお待ちください。
三月二十二日 幕田トメ様
函館市から速達で出された、この手紙の消印は3月24日になっている。「嬉しいニュースをお知らせ」と書かれており、幕田本人がすぐに帰って来ると伝言したという内容だ。吉報を待てという手紙に、トメは胸をなでおろしたに違いない。
















