極限状態の中で過ごし続けることおよそ1年。
身体検査の結果、正平さんは重労働の仕事には適さないと判断されますが、その後も収容所での作業は強いられました。

同じ境遇の人たちが集まる収容所で、班長を務めていた正平さんは、捕虜兵の体力回復や帰還意識を高めるために、あることに努めていました。

『まず朝食前に全員体操を15分位やる…』
『当時は軍歌は禁止されておったので歌謡曲を全員で合唱…』
『班の空気を明るくするために相手を呼称するには「〇〇さん」というさん付け運動をする事…』

手記から見えた、過酷なシベリア抑留中に捕虜兵を勇気づけていた正平さんの姿。
このような父親の行動の裏には、家族の存在があったと神田さんは話します。

【神田勝郎さん】
「やっぱり、自分の妻、私の母ですね。私の母や、子供たちのことを脳裏から離れたことなかったと思います。だからやっぱり何としても日本へ帰国したいという、熱い…思いが強いおかげで、その信念があったからこそ、さまざまな苦難に耐えたと思うんですよ」

その後正平さんは、背中に腫瘍のようなコブが見つかったことがきっかけで『シベリア抑留』から逃れ、運よく帰国が叶いました。