太平洋戦争末期、米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件。戦犯として最初の判決では死刑を宣告された兵曹長。死刑執行の直前で減刑された兵曹長は、故郷に帰ってから事件について何も語らなかった。父が戦闘行為の一つととらえていた処刑の様子を、戦犯裁判の記録から初めて知った息子たち。その反応はー。

炭床静男兵曹長

◆裁判記録が語る事件の様相


2021年2月、鹿児島市にお住まいの炭床静男兵曹長の次男、健二さんと三男の浩さんを訪ねた。取材に際して、写真や裁判記録を用意した。横浜軍事法廷の写真は、アメリカの国立公文書館にあるもの。裁判資料は日本の国立公文書館が所蔵する調書など弁護人が所持していたもの、そして公判記録は外交史料館に入っているものだ。
元警察官の健二さんは、公判記録を音読してくださった。1948年2月12日、炭床静男が証言台に立ち、質問に答えた記録だ。
処刑の現場に集まった数十人の日本兵たちが、命令なく「共同謀議」で、杭に縛られた米軍機搭乗員を次々に銃剣で刺して殺害した、というストーリーで裁判を進めている検事側からの質問に対して、静男は次のように答えている。

銃剣で刺されて殺害されたロイド兵曹