パラオで祖母の足跡をたどる 過去の面影が残る場所を訪ねると 

そして取材でパラオに向かった私は、かつて祖母が暮らしたコロール4丁目を訪れました。何か手がかりになるものはないかと、日本統治時代のコロールを再現した地図を片手に歩きました。

上江洲記者
「今でも民家がああやって並んでますけど、あの辺は当時も住宅があったようですね」

手あたり次第、住民たちに話を聞きますが、当時を知る人はなかなか現れません。

地元住民
「たまにね、普通の道にこういうの(戦車)がある」

パラオの街中では今でも、時が止まったかのように戦車が至る所に残されています。

地元住民
「日本統治の時代にはたくさんの日本人が住んでいた。日本人がいたのはこちら側ではなく、あちら側」

祖母が通った第2国民学校は、面影はありませんが記念碑が残されていました。

次は博物館に移動。そこで見つけたのは、1938年当時、沖縄から移住した漁師たちがカツオ漁をする写真。カツオ漁師だった祖母の父が漁をしていたかもしれない港を訪ねると、背景の山だけが形を変えず残っていました。

そして、たどり着いた沖縄関係の戦没者3432柱が祭られる沖縄の塔。
3歳と1歳で亡くなった祖母の妹、幸子ちゃんと松江ちゃんに初めて手を合わせることができました。

パラオから戻った沖縄出身者たちは、毎年沖縄の塔を訪れ慰霊祭を執り行ってきましたが、慰霊祭も関係者の高齢化により今では実施されていません。

パラオ帰還者 金城善昌さん(当時91歳・2014年)
「本日の慰霊祭を持って最終となる。御霊に誠に申しわけなく、断腸の思い」

最後の慰霊祭に参加し、私たちが7月に話を聞いたパラオ帰還者の金城善昌さんもまた、9月3日に亡くなりました。