祖母が見た『パラオのいま』 思い出される記憶のかけら

帰国後、私が見た今のパラオを祖母に見てもらいました。
祖母・和子さん
「あっこれに映るの?」
上江洲記者
「今のパラオよ」
祖母が通った第2国民学校跡地を目にした後にはー
祖母・和子さん
「国民学校1年生♪っていう歌があった。」

映像を見進めると、祖母は当時のことを忘れたわけではなく「記憶に蓋をしていただけかもしれない」と思うことがありました。
祖母・和子さん
「そこら辺に行ってからもっと村の名前、ガラスマオとか朝日村とかあった?あ~やっぱし。一番都会はここら辺(コロール)ではあるわけよね、南洋の。そこから戦争が激しくなるっていうから移ったのがそういうところだった」
Q今思い出した?
「いや、ないと思ってから自分で口に出さなかったわけ」
疎開先がガラスマオと朝日村という村であったこと。栄養失調で亡くなった妹2人はその地に葬られているかもしれないということ。
現地を歩いた私と祖母だからこそ、つながる話でした。

祖母・和子さん
「こういう歳でこういう話ができて、なかなかできないよ。今まりのが話するからあれであって」
「戦争はもう本当に…」
戦争が蓋をした祖母のパラオで生きた記憶。私はそのかけらをひとつ、ひとつ、拾い始めたばかりです。
【記者MEMO】
今回取り上げたのは私と祖母の話ですが、皆さんそれぞれの中で、ご両親であったり、祖父母、またその上の世代の家族にしっかり話を聞いたことがあったか、考え直してくださった方もいらっしゃると思います。
恥ずかしながら私も今回パラオに行くことになるまで、祖母にその話を聞いたこともなければ、あえて聞こうとしたこともありませんでした。
しかし今回祖母の話をしっかりと聞いて、自分の目で現地を知って、祖母の思いを知ることができて本当に良かったと思います。
ぜひご家族から直接お話を聞ける今だからこそ、当時のことについて聞いてみるきっかけにして頂ければ幸いです。