1914年から31年間、パラオ共和国は日本統治下にあり、およそ1万5千人の日本人が暮らし、その4割あまりは沖縄出身者でした。その中の1人に、パラオで生まれ戦争を経験したRBCの上江洲記者の祖母がいます。上江洲記者が祖母の過去に触れ、現地で取材を行いました。そこで見えたものとはー

祖母が語らなかった昔の記憶 記者が迫るパラオの史実

上江洲和子、88歳。私の祖母です。
よく笑う明るい祖母ですが、自分のことになると多くを語らない不思議さも持っています。

そんな祖母が生まれたのは『パラオ』でした。

私を含む家族の誰も、祖母からパラオにいた頃の話を聞いたことがありません。
そんな中、偶然、取材でパラオを訪れることになり、記者として、孫として、祖母の過去に向き合ってみることにしました。

祖母・和子さん「今日はどんなことするの?」
上江洲記者「ばあばあにパラオのことを聞くわけ」
祖母・和子さん「(微妙な顔)私はあんまり…」

「当時のことを覚えていない」と繰り返す祖母に、少しずつ、質問を重ねると、当時住んでいた場所に関する記憶を口にしました。

祖母・和子さん
「4丁目っていうことは覚えてるけど。どういうあれか」

戦前のパラオでは、南洋群島の中心的な機能を果たしていたコロールの町を7つの区分に分けていました。

私の祖母はそのうちの『コロール4丁目』で、糸満出身でカツオ漁をする父や母、家族7人で住んでいました。

しかしそんな穏やかな暮らしも長くは続かず、第二次世界大戦が勃発。コロールの町を空襲が襲い、戦況は悪化。山村部での疎開生活が始まります。

祖母・和子さん
5、6名山の中で河原があるでしょ。そこに水遊びしていた。そしたらヘリコプターが。山の中でも空が見えるところがあるじゃない?それを見られたら機銃でパラパラやられるわけよ」

疎開を始めたころは家族7人でしたが、父が病気で亡くなり、妹2人は戦争による栄養失調で犠牲になりました。

祖母・和子さん
「お兄ちゃんが一番上、そして私、そして私の下に3名いた。で戦争で山の中で…1歳と3歳だった」

パラオでの戦争の記憶を祖母は長い間ひっそりと、持ち続けていました。

Q一人でいるとき?ふとした時に急に思い出すってこと?
祖母・和子さん
そうね、ひとりでいるときいろんなのを考えるわけよ。こうだったね~とかさ。人に話しない。自分だけで想像して…」