「子どもを殺せ」終戦後の過酷な日々
仙台からの移住者が暮らした集落は、現在の黒龍江省にあり「仙台村」と呼ばれていました。土地や建物は現地の人から安く買い上げたものでした。

終戦を迎えると、開拓団員は現地住民らの襲撃や略奪に遭い、菅田さんは兄・恒一郎さんを亡くしました。生き延びた人たちは、夜を待ち鉄路を歩いて逃げたと言います。
菅田恒子さん:
「鉄橋を渡るときに雷が鳴っていて、雷の光で鉄橋を渡った。弟と妹の手を離さないようにして。小さい子どもがいる人はみんなに『殺せ』と言われるんですよ、逃げるときに子どもはお腹がすいているから泣く、泣かせると(気づかれて)襲撃されるから泣かせないようにと。おっぱいを押し付けて殺した人もいるんですよ」

冬にはマイナス30度を下回る満洲の地。菅田さんの両親は、寒さと栄養失調で命を落としました。「喉が渇いたのでつららを食べたい」父・幸作さんは最期にそう話したと言います。
菅田恒子さん:
「氷を食べたいと言われたんですが、そのときに私は取りに行かなかった…。その後に亡くなったので、うんと思いがある。死に水だったかもしれないから」