米軍機搭乗員3人を殺害したことで、戦後、41人の元日本兵が横浜軍事法廷で死刑を宣告された石垣島事件。最終的に死刑が執行された7人のうち、2人は20代の下士官だった。彼らより年下で、一審で死刑、再審で終身刑になった元上等水兵が追悼集で二人との思い出を綴っていた。20歳前後で同じ隊にいた三人はみな農家の出身。母との面会時に土産として手渡せと饅頭や羊羹をもらったこと、自分の姉に好きだった人の面影を重ねていたこと。太平洋戦争末期、戦犯事件の現場にいたのは素朴な若者たちだったー。

◆18歳で事件に関わった上等水兵

横浜軍事法廷での上新原種義(写真左端)(米国立公文書館所蔵)

スガモプリズン最後の死刑執行となった石垣島事件の7人のうちの一人、幕田稔大尉の生家に残されていた追悼文集「七氏を偲びて」。7人の一周忌にあわせてスガモプリズン内で原稿を集めて制作された。追悼の言葉を寄せているのは、同じ石垣島事件で被告となり、死刑から減刑されて、なお所内に囚われている人たちだった。(西部軍事件関係者が一人だけ特別寄稿している)

「想ひ出」のタイトルで、20代で死刑執行された下士官、成迫忠邦と藤中松雄とのエピソードを書いたのは、上新原種義。米軍作成の再審用の資料をみると、1949年当時で22歳。鹿児島県姶良郡の出身で仕事は農業、家族は母と男兄弟が二人いる。1944年2月に海軍に入隊、翌年の4月に石垣島で米兵を殺害する事件が起きているので、事件当時は18歳くらいということだ。一審では死刑だったが、再審で終身刑に減刑された。成迫忠邦は2歳上、藤中松雄は5歳年上で、同じ隊に居た。松雄はこの隊では壕を掘るなどの建設作業をしていたが、上新原も一緒に同じ作業をしていたようだ。