◆死刑確定した直後 若者たちは

1949年9月に死刑執行された東海軍司令官 岡田資中将

北田は1949年5月から9月末まで病気の治療のため、五棟を離れた。その間に9人の死刑が執行されている。北田が戻る寸前の9月17日には、死刑囚たちの心の拠り所であり、法華経の講話などもしていた東海軍司令官の岡田資(おかだ・たすく)中将が旅立ち、五棟の仲間たちは、「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えて見送った。「五棟の空気が一変」というのは、岡田がいなくなったことも影響しているかもしれない。

そして1950年3月29日。自身の死刑確定を知った成迫忠邦と井上勝太郎の様子を、北田は書いている。この時、北田と井上勝太郎は同室だった。瀬山忠幸は北田と同じくこのタイミングで死刑から減刑された。

石垣島警備隊副長だった井上勝太郎大尉(米国立公文書館所蔵)

<第五棟 北田満能(「七人を偲びて」1951年より)>
その夜、成迫忠邦、瀬山忠幸氏来房して一室に四人会し、語り合った。助かった者と時間の問題となった人達と。井上勝太郎氏が言った。「仕方ありません。・・・助かった貴方たちは充分体に気をつけて下さい。そして一日も早く此処を出られん事を祈ります。再審発表の時は飯が食えなかったが今度は平気です。武蔵野に叔父がいますから、かえりに寄って私の模様を率直に伝えてください。」そして私の求めに応じて「別に書くこともない様ですが」と言いつつ、最後の言葉と覚しきものを便箋四枚に書いてくれた。ほかに何か、と言ったけれども、笑って何もくれなかった。