スガモプリズン最後の処刑は、沖縄県石垣島で終戦の4か月前に米軍機搭乗員3人を捕虜として処遇せずに殺害してしまった「石垣島事件」に関わった7人だった。米軍がひらいた横浜軍事法廷で最初の判決が言い渡された時、死刑を宣告されたのは41人だった。その後、約2年の間に再審、再々審と段階的に減刑され、最終的に残った7人の死刑が執行された。その1年後、7人の一周忌にあわせて発行された追悼文集で、編集を担当した元死刑囚が、死刑囚の棟での日々を振り返っていた。減刑される者、死刑が確定した者。運命が分かれた者たちが交わした言葉はー。

◆「事実無根」で有罪になった兵曹長

横浜軍事法廷での北田満能(写真中央)(米国立公文書館所蔵)

追悼文集「七人を偲びて」を編集した北田満能は、熊本県八代郡の出身で、石垣島警備隊では照空隊長を務める兵曹長だった。サンフランシスコ平和条約発効後に戦犯たちの早期釈放を求める運動が起き、その請願のために巣鴨委員会が作成した「戦犯事件調査票」という資料がある。その中に北田の調査票があった。それによると、北田は米兵の処刑現場では「見物した」だけで、米兵を殴ったり、銃剣で突いたり、さらには遺体を傷つけたこともなく、すべて事実無根の事柄で有罪になったと申し立てていた。一審で絞首刑、再審でも変わらず、最後のマッカーサーによる再々審でぎりぎり減刑されて重労働30年となった。

41人に死刑が宣告されてからおよそ2年の間、死刑囚を収容する棟「五棟」で起きた事を、北田自身が書いて追悼集に織り込んでいる。始まりは1948年3月16日の横浜軍事法廷からだ。

<第五棟 北田満能(「七人を偲びて」1951年より)>
(被告の)川平と池宮城が無罪を宣告されて、次に赤塚が呼び出されて「絞首刑」を言い渡された時、残りの全員が断罪だと直感した。まさか全員が絞首刑とは、夢想だにしなかったことである。何が何やらさっぱり分からぬままに巣鴨へ、そして厳重な身体検査をうけて死刑囚房に入る。その間の事はつぶさに書き現すことは出来ない。

一時に四十名余りの死刑囚が入って来たので、既決の死刑囚がびっくりしていたのを思い出す。数日して弁護士や調査官からいろいろ知らされた。特に二世米人の某調査官は、判決の不合理を説明して、「再審によってほとんどの人は減刑されると思う。それに洩れても又、次々に審査されるのだから決してヤケにならぬ様にしていてくれ」と力づけた。係将校も何度も嘆願書を出す様にすすめてくれたし、弁護士は事件の真相を率直に提出するように取り計らってくれた。