◆ニコニコと笑って さよなら

巣鴨版画集より

冬至堅太郎は手先が起用で、戦犯たちが書いた下絵をもとに、版画を彫り、巣鴨版画集を完成させている。田口泰正の眼鏡も修理してやったようだ。田口の同室者も冬至と同じ西部軍事件の和光大尉だった。

<冬至堅太郎の日記 1950年4月5日水曜日>
〇三人目は田口君。顔色は少しも変っていない。その前の水曜日、私が修繕してやった眼鏡の奥がニコニコと笑っている。
Ta「とうとう行くようになりましたよ」
To「残念です。然し私たちも直ぐゆきますからね」
Ta「いや、来ないで下さいよ。ああ、それから茂吉研究の資料は房に残して置きました。和光さんに頼んでありますから冬至さん、受け取って下さい」
To「承知しました。じゃ行ってらっしゃい」
Ta「さよなら」
To「さよなら」

◆残念だが仕方がない すっきり死んでください

成迫忠邦上等兵曹

大分県佐伯市の出身で500戸の村で唯一の大学生だった成迫は、事件当時21歳の下士官だった。上官の命令で縛られた米兵を藤中松雄に続いて2番目に突き、死刑になった。体格の良い米兵を小柄な日本兵、藤中松雄のひと突きでは死に至らせることは出来なかったとみられたのだろう。死刑執行時は26歳だ。

<冬至堅太郎の日記 1950年4月5日水曜日>
〇四人目は成迫君これもニコニコと笑っている
N「やあ、お世話になりました。いよいよ行きますよ」
T「残念だが仕方がない。すっきり死んで下さい」
N「ええ」
T「私もすぐ追っかけますからね」
N「いや、あまりいいところじゃありませんからね。刑場へ行くことだけは止めてください」
T「そう云ってもどうせ行かなくてはならんでせう」
N「然し変ですね。何ともありませんよ」
T「そうですか、結構です。じゃ行ってらっしゃい」
N「さよなら、行ってきます」