◆待ちに待った写真を手にして「正月のよう」

藤中松雄の葬儀での写真 中央が当時27歳だった妻ミツコ(嘉麻市碓井平和祈念館所蔵)

松雄は「お盆には総員で写真を撮って送る」という母の言葉を信じ、楽しみにして待っていた。しかし9月になっても届かず、「今度撮って送りましょうね」という母の返事に落胆した旨の手紙を送っていた。その待ちわびた写真がやっと届いた。(なお、手紙では松雄は松夫、妻ミツコは光子と表記されている)

<藤中松雄が兄に宛てた手紙 1949年9月27日付>※一部現代風に書き換え
待ちに待っていた写真、そしてあきらめていた写真、まことに有難うございました。二十二日、「敬称略す」写真、(兄弟や親族らの)手紙八通受領し、その中、光子(妻)の手紙には孝一(長男)、孝幸(次男)の写真、フジエ(妹)のには由美チャンと二人のが封入してあり、今思うと獄につながれる身で八通の便り、そして三枚の写真、同時に入手し、正月の様な心持がした事であります。こう思うのも獄舎生活、まして死刑囚でなければ、あじわい得ない体験かも知れません。しかし、これは現在思うのであって、入手した当時はこの様な考察などは修養足らぬ私には、到底夢とも思われない事であります。写真の事はあきらめて期待もせず、その朝は佛書「如来と人との交渉」を読んでおりましたところへ、監視の人が八通の封筒を網戸の上から、ニッコリ笑いながら、フジナカ、「便り」タクサン、タクサンネと言いつつ入れてくれるので、始めは冗談ではないかと思った程でしたが、全部私宛でした。