◆週に1通のみの発信が「2通まで許可」

スガモプリズンの死刑囚が集められた棟にいる松雄は、この手紙を出す時点までは、週に1通の発信しか許されていなかった。1949年に松雄が作った手紙の発信リストがあったが、ミツコ宛てが一番多いものの、二週から三週に一度の頻度だ。婿入り先のミツコの父母や実家の兄たち、当時7歳になる長男・孝一の名前がある。この手紙の発信をリストに書き込んだ7月19日の余白に「七月十九日より二通まで許可される」とメモが入っている。
<藤中松雄が妻に宛てた手紙 1949年7月19日>
御無沙汰しましたのは、(手紙を)書かなかったわけではなく、前々週は(実家の)父に書き、前週は義数さん(義弟)に書きました。それもやがて届く頃と思います。
お前や孝一、父や母又何処にも出したくても、一通ではどうすることも出来ませんでしたが、幸い四、五日前に、「次の便から週二通までは許可する」と正式通知がありましたので、別にもう一通書けるわけです。この歓びは包みきれない程です。娑婆にいる人にはとうてい理解出来ないことと思われます。そして、紙数三、四枚まではよいとのことで、今まで遠慮して書いておりましたが、これからは充分書けることと思います。
何より嬉しいのは、伯父伯母様等に出せることです。入所以来、長い間、親戚には御無沙汰ばかりしていたが、以後一通は親戚めぐりに出したいと思っています。そして一通は父母やお前、孝一に書くつもりです。
◆農作業に奮闘する妻を思い・・・

<藤中松雄が妻に宛てた手紙 1949年7月19日>
そう、今日は七月十九日だな。新のお盆は早や過ぎましたね。併し故郷の方は旧暦のお盆だから青年少女らは夜遅くまで盆踊りのけいこに余念なく踊りまくっている事でしょうとのんきに思って居るが、唯一人で朝早くより炎天下に除草に苦闘するお前の事を思うと、何もかも忘れて電光の如く脳裡をかすめるのは、如何に愛情を注いでも注ぎつきせぬ可愛い二人の子を見守りつつ、我家のため雄々しく働く、たくましい、けなげなお前の笑顔です。光子、ほんとうにすまないなァ~