元海軍一等兵曹の藤中松雄は1950年4月7日、スガモプリズン最後の処刑で命を絶たれた。彼が問われたのはBC級戦犯。墜落した米軍機搭乗員の殺害に関わったというものだった。亡くなった時に28歳だった松雄には、ふたつ年下の妻ミツコがいた。処刑の前年、ミツコへ送った手紙には、幼い二人の息子ら家族を抱えて農作業に励む妻に対して「すまない」という言葉が書かれていたー。

◆妻ミツコへ宛てた手紙

藤中松雄の葬儀での写真 中央が妻ミツコ

藤中松雄の故郷、福岡県嘉麻市の碓井平和祈念館に収蔵されている松雄の手紙の中に、1949年7月19日発信で妻ミツコに宛てたものがあった。戸籍名は松雄とミツコだが、手紙では「松夫」「光子」と書かれている。松雄は藤中家に婿入りしているが、実家の父や兄弟、親戚とも付き合いは深く、手紙のやり取りをしている。

<藤中松雄が妻に宛てた手紙 1949年7月19日>
※一部、現代仮名遣いに書き換え
7月18日午前 光子様
久しい間、御無沙汰致しましたが、その後、皆も達者にお暮しの事と存じますが、如何かしらお伺い致します。私も相変わらず元気でお念佛の日々を送っております故、御安心ください。

横浜軍事法廷での藤中松雄

松雄はこの時点から1年4ヶ月前の1948年3月に、死刑の宣告を受けている。松雄が関わった石垣島事件は米軍機に乗っていた3人の米兵が石垣島警備隊の日本兵から殺害された事件だ。二人は斬首されたが、一人は杭に縛られて銃剣での刺突訓練の的にされたため、関わった人数が多く、全部で41人に死刑が宣告された。1949年1月に再審で28人が減刑されたが、最初に銃剣で突いた松雄は死刑のままだった。