■記者が見た“戦争の始まり”

午前3時前には、ウクライナ政府のサイトに対する大規模なサイバー攻撃。政府系の数多くのホームページがダウンした。


そして2時間ほど後には、ロシアのプーチン大統領のテレビ演説が始まった。NATOの東方拡大や、ウクライナ東部の住人への虐殺が起きているなどという一方的な主張を理由に、こう宣言した。

「特別軍事作戦を開始する」

一報を受けて、ロビーに向かう。外国メディアも慌ただしく集まり始めた。

ドーン。腹に響くような爆撃音が鳴り響いた。わずかな時間の間に、2発、3発と続く。10キロほど先の空港がある方角から、真っ赤な光が上がるのが見えた。



キーウが攻撃されているー。

覚悟していたつもりでいたが、それでも、“戦争”の始まりを信じることができずにレポートを続けた。

以降、シェルターと行き来しながらの取材が始まった。滞在していたホテルの地下駐車場がシェルターとして解放され、1日に何度も鳴るサイレンの度に、ここで時間を過ごした。

​集まったほとんどが報道関係者だったが、シェルターの一角で身を寄せ合う老夫婦がいるのに気付いた。聞くと、まもなく90歳を迎えるという。自宅は近所にあるが、シェルターの方が安心するため、ここで生活しているとのことだった。

「ここは暖かいし、快適よ。少しの我慢だから、何てことないわ」

十分な食べ物もなく、地下のこもった空気のなかでの生活が高齢者にとっていかに大変か、誰の目にも明らかだった。文句ひとつ言うことなく、硬いイスをつなげてベッド代わりにし、連日夜を過ごす姿に胸が痛んだ。

日を追うごとに情勢は悪化。それに比例するように退避する欧米メディアは増えていったが、それでも私たちはできうる限りを尽くして安全管理に努め、キーウに留まって取材を続けた。

■外に取材に出ると…着の身着のまま逃げる人々

ミサイルが直撃した高層マンション

外に取材に出ると、街から人は消えていたが、スーパーなどには食料を調達するための長蛇の列ができていた。避難列車が出発する中央駅も、荷物を抱えた人で溢れ身動きが取れない。列車の到着を知らせるアナウンスが流れると、みな一目散にホームへと急いだ。やっとの思いでホームに到着したころには、列車は満員。それでも諦めきれない人たちが体をねじ込むも、警戒にあたる兵士に羽交い絞めにされ無理やり降ろされていた。

「お願いだから私たちも乗せて。子どもだけでもいいから!」

悲鳴にも似た声が、あちこちから聞こえた。


列車が行きつく先の多くは、キーウから500キロ西に位置し、比較的情勢が安定していたリビウだった。発着駅であるリビウ中央駅は国内各地からの避難民で埋め尽くされていた。着の身着のままで逃げてきたため、寒空の下で一夜を明かす人も少なくない。そんな人々に手を差し伸べ、温かいスープをふるまうボランティアもまた、ウクライナ市民だ。

「私たちの町は、まだ攻撃を受けていない。だから、逃げてきた人たちを支えてあげなくちゃ」

不安を感じながら、それでも手を差し伸べ合う姿に、人々の強さを感じた。

侵攻当初は、「数日以内にキーウが陥落する」との観測さえ出たが、ウクライナ軍は徹底抗戦。反撃にあったロシア軍は3月下旬ごろにキーウ近郊からの撤退を始め、首都攻略という当初の計画の修正を迫られた。強まる経済制裁や、国連総会での非難決議など、国際社会からのロシアへの圧力は日に日に強まっていたが、それでもプーチン大統領は戦闘を継続した。