スガモプリズン最後の処刑が執行されたのは、1950年4月7日。終戦の年、沖縄県石垣島で3人の米軍機搭乗員を殺害した石垣島事件に関わった7人だった。そのうちの一人、幕田稔大尉は海軍の特攻・震洋隊の隊長で、石垣島警備隊司令からの命令に従い、米兵1人を斬首した。終戦後の1947年2月、BC級戦犯としてスガモプリズンに収監された幕田の元へ、幕田の母はふるさと山形市から夜行列車にゆられ、何度も面会に通っていたー。
夜行列車で東京へ 面会に通う母
スガモプリズンに収監された戦犯たちに関しては、行政的な基本データが残されている。写真入りの個人プロフィールのほか、刑の確定や執行を告げる公文書などだ。石垣島事件の被告たちの書類一式の中に、収監された1947年の面会記録があった。幕田大尉の記録を見ると、母トメが面会した記載が5回あった。日付は5月7日、6月10日、7月9日、8月22日、10月24日だ。石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐は被告の中では一番早く、その年の1月に収監されていたが、神奈川県に住む妻は月に1回のペースでスガモプリズンに通っていた。近県ならともかく、当時は山形から東京に行くには一晩かかった。スガモプリズンから最初に届いた3月25日付の幕田からの手紙には「面会などは固くお断り」と書いてあったが、母トメは「心配をかけたくない」という息子の気遣いは横に置いて、とにかく息子に会いにいかなくてはと行動に移したのだろう。幕田が4月21日に書いた二通目の手紙は、米軍の検閲印の日付が4月28日だったが、そのすぐ後、5月7日には最初の面会をしている。居ても立っても居られなかったのだろう。
















