
当時日米両政府は、日米地位協定の改定ではなく、強制力のない ”運用改善” で事態の鎮静化を図った。これに反発したのが、当時の大田昌秀知事だった。
▼大田昌秀知事
「国に対して署名・押印はできない旨の通知をすることにしています」
民有地を米軍用地として強制使用するための手続き「代理署名」を拒否したのだ。
基地の安定運用が危ぶまれ、日米安保の根幹を揺るがしかねない事態に、日本政府は動揺した。
▼沖縄国際大学 野添文彬教授(日本外交史・大田知事を研究した著作)
「冷戦が終わり、当時日米両政府はこれからの日米安保をどうするか、まさに協議していく段階、その最中にあった。こういった沖縄県民の怒りが示されて、このままでは日米関係の安定はありえない、ということを日米両政府も意識して対応せざるを得なかった」
その後日本政府は、「沖縄米軍基地問題協議会」など、県との対話の場を設置。一方県は、米軍施設の段階的な返還計画「基地返還アクションプログラム」をまとめ、「国際都市形成構想」といった沖縄の将来ビジョンを日本政府に提示した。

そしてこのころから大田知事が求めていたのが、普天間基地の返還だった。これについて当時大田知事は、”あること” を注視していたと野添教授は指摘する。