七士の戦いや人生 熊本城攻めや田原坂など激戦地を転々と
有馬純俊は、20代の若さで熊本各地で戦い、左手を撃ち抜かれる重傷を負いながらも戦線に復帰した。
その後、延岡で西郷軍が完全包囲された際、険しい可愛岳を突破して脱出に成功。そのまま各地で官軍を破って、武器や弾薬を奪いながら鹿児島へ戻り、9月1日の鹿児島城下突入戦まで戦い抜いた。
ただ、最後の城山の戦いには合流できず、その後官軍に帰順した。
長井 弥藤太は40代後半。人吉や湯之尾などでの戦闘に参加。入院しながらも、傷が癒えると再び隊に戻ろうとするなど、粘り強く戦線復帰を目指した記録が残っている。
米良 佐平太も40代。明治5年には開拓担当として姶良の塩田開発の責任者を務めた。明治10年の西南戦争開戦時から七番大隊の補給を担当。熊本のほか鹿児島や延岡などの激戦地に従軍し、8月に降伏した。
悲運の最期を遂げた若者もいる。有馬儀定だ。 23歳だった彼は、一度は兵卒と偽って降伏し放免されていた。しかしその後、「隊長職にあった者は申し出よ」という布告に対し、自ら「半隊長でした」と名乗り出た。その正直さゆえに国事犯となった。
そのほか、最大の激戦地・田原坂で日夜10日以上も戦い続けた寺田泰助、熊本城攻撃から人吉防衛戦まで最前線で戦い抜き、最後は城山での西郷との合流を目指した橋口仲二郎、熊本城攻撃や田原坂の戦いに参加した土岐丑之助など、いずれも劣らぬ薩摩隼人たちだ。
戦いの傷を抱えたまま、故郷・鹿児島を遠く離れ、再びその土を踏むことなく世を去った彼らの無念はいかばかりだっただろうか。

















