「父系血統主義」が残した傷跡

竹井ホセさんは現在82歳。日本の敗戦時にはわずか2歳でした。敗戦の2年前、1943年に日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれ、父親はフィリピンで鉄道技術者として働いていました。父親は竹井さんが母親のお腹の中にいる時に消息不明になりましたが、後に軍人として日本に帰国していたことが判明。調査を経て、大阪に親族が住むことがわかり、今回の訪問で父親の墓参りをし、異母兄弟との対面を果たしました。

竹井さんは早期の日本国籍取得を願い、「年齢的に自由に動けることが少なくなりました。早く、かなうことを願っています」と語っています。

フィリピンには戦前、鉄道などのインフラ建設や農園経営のために多くの日本人が移住しました。日本人男性と現地の女性の間に生まれた「フィリピン残留日本人2世」の総数は、亡くなった方を含めて約3800人。今も存命の方のうち、約50人が日本国籍の取得を望んでいるといいます。

かつての戸籍制度には「父系血統主義」というものがありました。父親が日本国籍を持ち、母親が外国籍の場合、「生まれた子供は日本国籍」と定めた制度です。現在は改定されていますが、竹井さんのケースは、この「父系血統主義」に則れば明らかに日本人なのです。

しかし、かすかな記憶やわずかな手掛かりだけで、「自分は日本人である」と証明するのは困難な作業です。日本で新たに戸籍を作るためには、断片的な情報だけでは出生に関する証拠書類を集めるのが難しく、戦後80年という時間の壁が立ちはだかっています。