半世紀以上も被爆体験を語れなかった理由

5歳の時、広島で被爆した張本勲さん。半世紀以上もその経験を誰にも語れなかったという。

――被爆者だとなかなか言えなかったのはなぜなんでしょう?

張本勲さん

「原爆症を持ってる男だと思われるのは嫌だし。うつりはしないけれど、子どもの頃、差別されたところを見ているから。言わないほうがいいだろうと」

「放射能がうつる」「子どもに遺伝する」。被爆者に向けられた、言われのない差別で、結婚が破談に至るケースも多かったという。

張本勲さん
「小学校に行って、ケロイド姿の先輩たちが何人もいた。父兄はわからないから『うつるから近寄るな』と」

身体に浴びた放射能への恐怖も、ずっと消えることはなかった。

張本勲さん
「2キロ以内でまともに被爆をうけてましたから。ひょっとしたら私もそのうち原爆症がでるのではと。プロ野球選手だったけれど、常にその思いは消えなかった。

1年に1回球団で診察(健康診断)がある。1週間前から心配でしたよ。咳をしたり、胃がおかしいなと思うと、やっぱり原爆症を思い出すんです。途中までは、それが怖かったです」

――そういったことがプレーに影響は?

張本勲さん

「忘れてます。プレーする時は必死ですから。来る球をなんとか強く、正確に打つ、この2点しかないから一瞬忘れます」

引退後も、被爆体験を誰にも話すことはなかった。ところが、60歳の頃、テレビで若者が原爆について話す場面に衝撃を受けた。

張本勲さん
「(テレビで)『戦争を知らない』『(原爆が)どこに落ちたの?』という人がいたんですよ」

――原爆がどこに落ちたか知らない?

張本勲さん

「そういう人がいたんですよ。びっくりして、『こんな人が日本にいるのか』と思って。原爆を受けた人間にしたら。この国はだめになると思って。これはだめだと。若い人にもちゃんと語り継いでいかないといけないんだと」

語り始めた被爆体験。それは壮絶なものだった。