JNNがこの1年「戦後80年プロジェクトつなぐ、つながる」で取材してきた、戦争を体験した方々、5人の言葉を集めました。

戦時中は“銃後の守り”として、子どもや女性も働きました。鹿児島県指宿市の大吉通子さん(95)は思わぬ作業をさせられました。

大吉通子さん
「ある日、『モンペに着替えてください』『そこの砂をかごに入れてくれ』。結局、あとで航空隊が建った」

やがてそこは特攻基地に。

大吉通子さん
「若い男の子がきて『姉さん、あす僕は飛行機で飛ぶんだよ』。飛行機の音がしたら庭に出て、一生懸命ハンカチを振ったって」

奄美・加計呂麻島の子どもたちが掘るのを手伝ったのは、ただの防空壕ではありませんでした。

国島静子さん(100)
「『これ何のために掘っているか分かっている?』笑って『あんたらが一緒に死ぬための防空壕』。みんなびっくりして、えーそうだったの」

国島さんが掘っていたのは、集団自決のための壕でした。

空襲が激しくなり、女性や子どもたちは防空演習に励みました。しかし、演習の成果はあまり出なかったと、東京に住む小林暢夫さん(95)は言います。

小林暢夫さん
「防空演習と全く違う。バケツリレーで水かけて、火たたき棒で消す。ところが消えない、油の火の玉だから」

焼夷弾はゼリー状のガソリンでできています。飛び散って壁や床にへばりつき、火たたき棒やバケツの水ではなかなか消えなかったと言います。

ただ、消火は“防空法”という法律で義務付けられていました。さらに小林さんは、逃げることが許されなかった理由はほかにもあると言います。当時、地域で組織されていた“隣組”の存在です。

小林暢夫さん
「真っ先に逃げようという意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。隣組は、みんなで共同体だから」

当時、戦死者の遺族には勲章が送られました。三重県大台町の梅本多鶴子さん(92)は、いとこが戦死したときのことが忘れられません。

梅本多鶴子さん
「いとこが戦死したとき、友達に自慢して歩いて、嬉しかった。『お国のためになった』という気持ち」
「♪天皇陛下の御前で死ねと教えた父母の♪『天皇陛下の御前で死ね』と親が教えている。それが普通だと思っていた」

今となっては「いとこに申し訳なかったと思う」と言う梅本さんですが、当時は社会全体がそういう雰囲気だったと言います。梅本さんの母は国防婦人会の幹部でした。家族に男の子がおらず、兵隊を出せていないことに、母親は肩身の狭い思いをしていたそうです。

札幌の神馬文男さん(99)が教えてくれたのは、当時、家の玄関に貼られた、ある札のことです。

神馬文男さん
「あそこのうちは兵隊に出している『立派なうち』だと。『出征軍人の家』表札ぐらいの札を貼った。『お前のうちは兵隊にも出してない』と。白い目で見られるような状態を作り出してしまう」

神馬さんは海軍の航空兵を養成する「予科練」に志願して入り、飛行機の偵察員に。特攻に志願しました。

神馬文男さん
「『特攻隊志願する者一歩前に出ろ』私は出た。残れるはずがない」

結局特攻には出撃せず、終戦を迎えますが、神馬さんはシベリアに抑留されました。「戦争は二度としてはいけない」。学校などに赴き、そう訴えてまわっていた神馬さんですが、10月17日、亡くなりました。

神馬文男さん
「正義の戦争なんてあるわけない。名誉の戦死なんてあるわけない。ごまかされたらダメだよ」