スパイとして戦前渡米し、密かにアメリカの国力を分析していた男性がいる。新庄健吉。

44歳で非業の死を遂げ、84年前の12月8日(現地7日)、ワシントンで葬儀が営まれた。まさにその最中のことだった。真珠湾攻撃が勃発、太平洋戦争がはじまった。もし健吉が生きていたらどう思ったか。健吉は盟友に「非戦論」を語っていたのだ。

健吉の孫・靖生さんが「きおくをつなごう」に連絡をくれ、これまで公開されたことのない健吉の遺品すべてを見せてくれた。私たちは靖生さんと一緒に遺品を紐解き、謎に包まれてきた健吉の生涯と思いに迫った。(TBSテレビ報道局社会部 岸克哉)

遺品は何十年も屋根裏に

遺品のトランクから大量の手紙や資料が見つかる

遺品のトランクから大量の手紙や資料が見つかる

2021年、健吉の息子・敏孝さんが脳梗塞で倒れた。孫の靖生さん(51)が実家を整理していると、古びたトランクが目に留まった。開くと土っぽいにおいが広がる。戦前の写真アルバム、大量の手紙や日記が出てきた。軍服や勲章などと一緒に屋根裏に何十年も放置されていたのだ。靖生さんは、研究者に貸し出され散逸していた資料も取り戻した。折しも戦後80年、遺品のすべてが手元に集まり、ある思いが芽生えた。

新庄健吉の孫・靖生さん(51)

健吉の墓参りをする靖生さん

「私の父からは、健吉さんが戦争に反対の立場だったというふうに聞いています。祖父が何を思い、何をしていたのか知りたい。戦争が始まるか始まらないか、多分精一杯あの時代を生きた人だと思っていて、健吉が生きた証を伝えたいんです」

遺品から、天皇陛下が健吉に贈った「銀時計」が出てきた。陸軍経理学校高等科を首席で卒業した際に贈られたものだ。

恩賜の銀時計

その後入学した東京帝国大学の成績表にも「優」の文字ばかり。陸軍経理学校の同期で健吉の盟友・川島四郎は、健吉についてこう綴っている。

健吉の盟友・川島四郎の手記
「天稟と努力を併せた英才」
「自分の正しい信念の前には、いわゆる千万人といえども我行かんの気概があって、常に進んで難局に当り、相手が上官であろうと誰であろうと、堂々と論陣を張って折衝し、正に快刀乱麻を絶つの観があった」