「8月6日を忘れてほしくない」張本さんの背中を押した少女からの手紙

辛い経験を語り始めた張本さん。それでも足を踏み入れることができない場所があった。被爆の実相を伝える原爆資料館だ。

張本勲さん
「資料館の前で、あの100メートルの道路の前で、手が震えて悔しくて。何回もその前まで行ったんです。悔しくて手が震えて、『誰が、なんで、どうしてこんなことするのか』と思って入れなかった」

転機となったのは、66歳の時。大分県の小学6年の少女から届いた一通の手紙だった。

張本さんが新聞のインタビューに「8月6日は大嫌い」「5日の次は7日にしてほしいぐらいだね」と語ったことに、少女は――

少女の手紙
「私は張本さんに8月6日を忘れてほしくないです。なぜなら、私のように、原爆の本当のおそろしさを知らない人はきっとたくさんいると思います」

張本勲さん
「はっとしました。逆でしょう、と。そんな悲惨な日を忘れてはいけない思います、と。子々孫々まで残すべきだと思います、という投稿(手紙)をもらった」

さらに、少女が修学旅行で長崎の原爆資料館を訪れたことを知ると…。

張本勲さん
「子どもが行くんだから、俺は何をしているのかと思って」

2007年4月、張本さんは初めて原爆資料館の中に入った。

黒焦げの三輪車や、焼けただれた人たちの写真。張本さんは時間をかけて、全ての展示に足を止めた。

張本勲さん
「行ってきましたよ。小一時間、一階、二階みたら涙なくて見られない。こんな小さなスカート、5歳か6歳の女の子のスカート。『ひどいことするな』と言ったら、係の人が『これ小学生じゃないよ、高校生のスカートだよ』と。何千度で焼くんですからね。改めて悲惨さを思い出した。悲しかったけれど、悔しかったけど、しっかりみて、またいこうと思って」

張本さんは記憶をたしかめるように、その後、原爆資料館を度々訪れるようになった。

張本勲さん
「この洋服見てください。熱かっただろうに、苦しかっただろうに。こんなに小さくなって」
「姉さんを思い出す、このケロイドをみると」

19年前、張本さんに手紙を出した少女・松本利佳子さんは、いま30歳になった。 当初、手紙を書いたことを後悔した時もあったという。

松本利佳子さん
「自分の一番身近な人を亡くす経験は、戦争でなくても苦しいこと。さらに人に話すというのは、より自分の中でたくさん考えたり、思い出さないといけない。それがやっぱりすごく辛いこと。重荷を背負わせてしまったのでは、という気持ちもあった」

だが、被爆体験を語り続ける張本さんの姿に、その思いは感謝に変わっていったという。

――12歳だった女の子に手紙を書いた、彼女も30歳になりました。(彼女からの手紙)読んでいいですか

張本勲さん 
「30歳になった。どうぞ」

松本利佳子さんの手紙
「私が戦争を知らずに、平和を当たり前のように思うことができるのは、張本さんをはじめとする戦争を経験された方々が、戦争について伝え、平和な日本を守ってきてくださったおかげです。私にできることは小さなことですが、これからも身近な人たちと戦争について学び、平和について考え続けていきます。8月6日を忘れずに伝え続けてくださり、本当にありがごうございました」

張本勲さん 
「また帰って読み直して、お礼状を書いておきます」

戦後80年の8月6日。松本さんが通っていた大分県日田市の小学校で、黙祷がささげられた。

8月6日を登校日にして、原爆と戦争を考える。平和学習の一環として、大分県のほぼ全ての小学校で50年以上前から続く取り組みだ。

張本勲さん
「若い人に『絶対に人間の世界では戦争はだめだ、殺し合いは一番やってはいけないことだ』ということを語り継いでもらいたい。なぜならば、明日はあなたがそうなるかわからないから、ということを言いたいんですよ」