米軍機の恐怖 小さな船で本島へ
当時、飛行場建設に徴用されていた山城ヨシさん92歳。当時小学6年生でしたが、突然現れた米軍機の恐怖を今でも覚えているといいます。

Q.何が一番怖かったですか?
山城ヨシさん(92)
「飛行機が自分の目の前をヒューっといくのが一番怖かった。あれに見られたら自分たちは死ぬということ。木の下にいったり、穴の中にいましたね」
「自分の家はみんな焼けた、周囲全部なくなった」
島の外へ出る交通手段はありませんでしたが、父親が何とか手配した小さな船に乗ることができました。深夜、9キロ離れた本島へ向かいます。

山城ヨシさん(92)
「自分の父親がね『どうしても生きてくれよ』『頑張るぞ』と話しながらね。父親が『生きらしてくれるよ』『生きらしてくれるよ』あの父親の声がね、まだ残ってる。もう大変だったわけよ」
奇跡的に助かった命。一方、島では悲劇も…
集団自決 背景に“軍民一体化”

伊江村 教育委員会 玉榮主査
「こちらが、アハシャガマという洞窟。村民、防衛隊が避難していた」
島の北東部にある、防空壕として使われた洞窟「アハシャガマ」。奥行きは20メートルほどですが、約150人が身を寄せ合っていました。
伊江村 教育委員会 玉榮主査
「伊江島の組織的戦闘が終わった翌日に、こちらの方で集団自決が起こったといわれております」
当時14歳だった住民の証言です。

伊江島の戦中・戦後体験記録
「防衛隊の人が爆雷の信管をパーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。気がつくと、自分は生きていました。妹はだっこしていると、上から落ちてきたものが、ももにドンと落ちてきて、足の骨が折れて、ユラーユラー、していました。その時に生き残ったのが、二十人くらいです」
「当時は、捕虜にされたら、体を一寸切りにされると聞かされていましたので、もう自決するのはあたりまえだと思っていました」
背景にあったのは、日本軍と住民の“一体化”です。当時、住民は「青年義勇隊」「防衛隊」「婦人協力隊」「救護班」などに、根こそぎ動員されていました。「捕虜になるくらいなら自決せよ」という軍の方針が住民に浸透していたのです。