「沖縄戦の縮図」とも言われる伊江島。多くの住民が戦闘に巻き込まれ、「集団自決」に追い込まれるなど、深い傷跡が残っています。この島で何があったのか、当時を知る人たちの証言からたどります。
狙われた伊江島 1500人犠牲

沖縄本島からフェリーで30分の伊江島。周囲約22キロ、人口は約4000人です。美しい海に囲まれ、家族連れが海水浴を楽しむ姿も…
しかし、この島には80年前の戦争の爪痕が残っています。村の金融機関だった「公益質屋」(昭和4年建設)。攻撃を受けながらも残った唯一の建物で、壁には大きな穴、内部もキズだらけです。

小川彩佳キャスター
「南側に大きな穴が開いているのがわかると思いますが、ここから海が見通せます。あちら側からのアメリカ軍の艦隊の砲撃を受けて、こうした大きな被害を受けたということです」

砲撃の凄まじさを今に伝える建物。その背後にあるのが、標高172メートルの城山です。ここには、日本軍の陣地がありました。海には、米軍の艦隊が集結。激しい艦砲射撃が行われたのです。
伊江島の戦いは「沖縄戦の縮図」と言われています。背景には島が置かれた状況があります。当時、伊江島には建設中の日本軍の飛行場がありました。“東洋一”と言われたこの拠点が米軍から狙われたのです。

米軍が上陸すると住民を巻き込んだ戦いが始まります。村民の犠牲者は島にいた半数の1500人に達し、一家全滅は90戸。犠牲者の多さに加え、住民の戦闘参加や勤労奉仕、集団自決なども起こり、沖縄戦がこの小さな島に凝縮していたのです。
伊江村 教育委員会 玉榮飛道 主査
「日本軍の陣地壕があった場所になっています」

ここはかつての日本軍の陣地の1つ。長さは約30メートル。住民も協力し手掘りで造られたとされ、50人ほどが入っていたといいます。米軍側の記録でもかなりの激戦地だと言われていて、とある記録では「血塗られた丘」という表現をされていることもある。

Q.ここでは何が?
伊江村 教育委員会 玉榮主査
「爆雷を使った突撃、特攻、そういった戦闘も行われていたの で、そういった戦闘の準備も行っていたのではないか」
物量攻勢で攻めてくる米軍に対し、日本軍は避難中の住民をかり出し戦闘班を編成。中には赤ん坊を背負い、斬りこみに参加した女性もいたと記録されています。