戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。戦時中、日本の植民地だった台湾では先住民らを徹底的に教育、日本人と同化させ、戦場に送りました。この教育に携わった男性の苦悩を息子が語りました。

熊本県に、戦時中の台湾で撮られた貴重な写真が残っています。

台湾で幼少期を過ごした山口一海さん
「(Q.お父さまは)これです。当時の子どもたちは布切れをまとっているくらいですね」

台湾の山岳地帯などに暮らす「高砂族」と呼ばれた先住民族たち。山口一海さん(85)は日本統治時代の台湾で生まれ、彼らと共に育ちました。日本は、着る服も生活習慣も異なる彼らを日本式の学校に通わせ、同化を図りました。

山口一海さん
「高砂族が山に住んでたから、その風習を全部取り払って(山から)下におろす。そして教育する。日本人の名前をこの人たちは、みんなつけてありました」

父の泉さんは、警察官のような仕事をしながら日本語などを教えていました。

山口一海さん
「子どもたちをまず日本社会化、日本人化させる。同時に親も一緒に管理する」

戦争が始まると、旧日本軍は先住民の部隊を結成。泉さんは「高砂族」の若者を船に乗せてニューギニアまで引率しようとしました。しかし…

山口一海さん
「親父たちの船も向こうに着く前に沈没している。日本の負け戦の中で、向こうにたどりつくまでに、ほとんど死んでしまった」

南方に向かう日本の船はアメリカ軍の激しい攻撃にさらされました。特に、泉さんの船が通った台湾とフィリピンの間にある「バシー海峡」は輸送船の墓場とも呼ばれ、10万人以上が犠牲になったとされます。

泳ぎが得意だった泉さんは奇跡的に生還しましたが、戦後も罪の意識を抱えていました。

山口一海さん
「戦争に高砂族の義勇軍を連れて行った。10分の1くらいしか生き残っていなかったと。それに対しては非常に罪の意識というか」

一海さんはバシー海峡での犠牲者の慰霊祭にも足を運びました。

山口一海さん
「そういう人たちの上に平和がある。それを忘れたら、やっぱりいかんなと。今、世界全体がどちらかというと内側に向いていて、自分たちの覇権的な動きになっているから、こういう情勢の中で一番起こりやすいことが戦争だと。平和というものがいかに大事かということを根本において物事を考えていかないと」