◆家族写真を早く撮ってください

藤中松雄の手紙(嘉麻市碓井平和祈念館所蔵)

松雄は四男で、ほかにも大勢の兄弟姉妹がいる。兄弟たちは松雄によく手紙を出していたようだ。妹が盲腸で手術したことを手紙で知り、身を案じている。

<藤中松雄が実母に宛てた手紙 1949年8月9日>
お盆には総員で写真を撮って送るとの事でしたが、今日頃は写られましたやら。又天気でも悪く、来年のお盆に間に合う様にのばされたのではなかろうかと案じられます。どれ程待った事でしょう。写真の事については私の方からどんなに早く撮ってくださいと、手紙に書きたかったか知れません。しかし、次から次に逝く友を見ては到底間に合わないだろうと今まで書かず、そのうち今度送ってくださると心待ちにしていました。こう思いますのも一方的考えで、故郷の皆様には色々な都合上、私のひまな空想通りには、なかなかいたらなかった事と思います。久しぶりに書く母さんへの便りに、ここぞとばかり言ってすみません。どうか悪しからず。
酷暑の折にて、くれぐれもお身体に注意なさる様、重ねてお願い致します。祖先の冥福を祈ります。

八月九日 南無阿弥陀佛 母上様 松雄


藤中松雄が死刑囚になって以降、この手紙を書くまでに、スガモプリズンではA級戦犯を含めて約40人の死刑が執行された。仲間を次々に見送った松雄は、いつ自分の番が来るのか怯えながら日々を送っていたのだろう。

◆弁護人から兄へ再審についての報告

石垣島事件の法廷 上段の左から三番目が藤中松雄(米国立公文書館所蔵)

藤中松雄の手紙は、藤中家から嘉麻市碓井平和祈念館に寄贈されている。この中に横浜裁判で藤中松雄の弁護人を務めた湯川忠一弁護士から、松雄の兄に宛てた手紙があった。松雄が関わった米軍機搭乗員3人を殺害した「石垣島事件」では、1948年3月に41人に死刑が宣告されたが、翌年、1949年1月の再審で28人が減刑、あるいは無罪となり、死刑囚は13人になっていた。手紙の日付は8月26日。マッカーサー最高司令官による次の再審で死刑が確定するかどうかという状況で、松雄の兄が出した手紙の返事として、湯川弁護士から送られてきたようだ。