1950年4月7日、戦犯死刑囚としてスガモプリズンで命を絶たれた福岡県出身の元海軍一等兵曹、藤中松雄。松雄は墜落した米軍機に搭乗していた米兵が処刑される現場で、「銃剣で突け」と上官から命令された。刺突訓練として杭に縛られた米兵を突いたのは二十人以上いたが、最初に突いた松雄と次に突いた下士官の二人が死刑になった。死刑執行の8ヶ月前、松雄はふるさとの母へ「写真を送ってほしい」と催促の手紙を書いていたー。

◆獄中から母に宛てた手紙

生家で長兄の出征時に撮られた写真
最上段左から二番目 学生服姿の藤中松雄

米兵を殺害したことが捕虜虐待にあたるとして、戦後、戦犯裁判にかけられた藤中松雄は、1948年3月16日に死刑を宣告された。東京都豊島区にあったスガモプリズンの死刑囚が集められた棟で過ごして1年と5ヶ月。28歳になった松雄は母へ手紙を書いていた。松雄は19歳の時にミツコと結婚し、藤中家の婿養子となった。これは実母に宛てた手紙だ。

<藤中松雄が実母に宛てた手紙 1949年8月9日>
実に長い間ご無沙汰いたしましたね。その後、皆様はずいぶんお待ちなさった事と思います。母に出したのは三月二十二日に書いて以来のご無沙汰で、誠に申し訳なく思っております。どうか悪しからず、お許しの程お願いいたします。

藤中松雄のふるさと 福岡県嘉麻市

今日は旧暦の十四日ですね。すでに田の草取りも終わって、旧暦のお盆をお迎えになった事と思います。春江(妹)の「モウチョウ」手術後の経過はいかがですか。お伺いいたします。静夫兄と民雄(弟)の手紙を三月と四月に接し、春江が入院、そして手術の件を知り、驚きました。手紙によりますと「院長の話ではこれから一週間もすれば退院できるでしょう」とありましたが、なにぶん夏場の手術でありますゆえ「カノウ」する恐れがあるので、ちょっと案じられます。看護に当たる人が充分、食物について注意をなさったならば「カノウ」を防ぐことは出来ると思います。今ごろ、そんな事を書いておりますが、もう退院しているかも知れませんね。そうだとすれば、これに過ぎたる事はなく、一日も早く退院ご全快の日を祈っております。