「東京帝国大学と早稲田大学の学生が乗っていた」と馬越さんは教えてくれました。乗っていた3人のうち1人は助け出されましたが、残る2人は帰らぬ人となりました。
22歳で亡くなった川橋圭祐さんは、現在の東京大学法学部に在学中の昭和18年・1943年に学徒出陣で海軍航空隊に入隊しました。飛行機は、沖縄へ出撃するため指宿へ向かい、800キロ爆弾に信管を取り付けて出撃しました。

今治市の山中に墜落したのは「零式水上偵察機」。沖縄で特攻隊として米軍の軍艦に体当たり攻撃する任務に当たるため、茨城の基地を飛び立った機体でした。

今治市職員・馬越健児さん
「当初は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などで出撃していたが、大戦末期になると飛行機が無くなり、偵察機で出撃していた。そういうことが作戦として成り立っていた。それに誰も反対することができなかった」
馬越さんは「偵察機に爆弾を取り付けて、特攻機として出撃することになった」と当時の状況を説明します。3人を乗せた偵察機は、天候不良で沖縄への出撃が取り止めになり、鹿児島から香川の基地へ引き返している最中に墜落しました。
石碑は終戦から20年あまり後、海軍に所属していた地元の元軍人たちによって建立されました。しかし今、ここを訪れる人は、ほとんどいないということです。
郷土史の編集を手掛ける馬越さんは「昭和10年代の人から、話が段々と聞けなくなってきている」と話します。終戦から77年が経ち、当時を知る人たちは減少の一途をたどり、戦争の悲惨さを語り継ぐことの難しさが浮き彫りとなってきました。
特攻機で出撃した3人について、馬越さんは「その心境は想像ができない」とした上で、当時の状況について話ができるのは、2次資料、3次資料があるからだと言います。