■曾祖父は染物の職人か…?もっと知りたいルーツの仙台村

千葉隆司さん:
「中国に行ったのが昭和17年ぐらいですね」


永野仁さん:
「開戦して間もなくだね・・・。
 つらい体験している人が多いので、昔の体験をなかなか言いたがらない人が多い  
 んだよね。いずれかの染物屋さんの職人をしていたんじゃないか」


番地を頼りに曾祖父 栄治郎さん、祖父 正さんが住んでいた場所へ。

永野仁さん:
「ここなんだけれど」


今は、マンションやコインランドリーに変わっていました。

戦前には、町で一番大きかったという青山染工場が作業場を構えていました。


永野仁さん:
「青山さんの職人をしていたのかもしれない」
千葉隆司さん:
「お店で働かせてもらうことがあったんですかね」


違和感だった仙台村の存在。今は、もっと知りたいという思いが、強くなっています。

千葉隆司さん:
「調べるというより、残していくべきことがあると思う。そういう意味では調べることと、今後、知りたいと思ってくれた人が、ぱっと手に届くような資料を残したい」


千葉さんの思いが多くの人に、そして次の世代へと受け継がれていくことを望まずにはいられません。

今回取り上げた仙台村をはじめ、宮城県から満州に渡った開拓団員は、およそ1万人に上り、長野、山形に次いで全国で3番目に多い人数でした。戦後「中国残留孤児」などの社会問題が浮き彫りになりましたが、その影響は戦後77年が経つ今なお、続いています。